退職にあたり

#007 松塩クリニック透析センター 栄養部長・管理栄養士 猪爪 正子

 長い間お世話になりました職場を去るにあたり、私が栄養士として歩んできた道のりを振り返ってみたいと思います。

 私は、長野県短期大学・食物科を卒業後、信州大学附属病院にて、8人の栄養士の一人として、7年半勤めました。その後、結婚して家に入り、出産・育児に専念しておりましたが、1982年(昭和57年)10月に、私の友人を介して、哲太郎先生より、悦子先生が開業する柏原クリニックの栄養士として働いてほしいというお話を頂きました。大学病院で治療食の経験があるとはいえ、クリニックでは外来透析患者様の食事まで任されることになります。実際やっていけるのだろうかと不安ばかりの中、悦子先生にお会いしました。先生からは「信大病院と同じように」とのお言葉をいただき、さらに身が引き締まる思いで、新設クリニックでの仕事をスタートしました。出勤日には、病院の託児所に子供を預けて仕事をし、透析食についても一つ一つ学んでいく日々でしたが、とても充実していました。

 1985年(昭和60年)に哲太郎先生が経営する松塩クリニック透析センターが開業し、勤務地が同センターに変わりましたが、柏原の後任栄養士が交替する際には必ず連絡を取り合い、柏原での食事提供業務の相談にも応じて参りました。また、クリニックで働きながら検査技師や看護師の資格を目指して励む他の職員たちの姿に刺激され、1993年(平成5年)には国家資格である栄養管理士を取得し、職務貢献度を向上させることができました。

 2004年(平成16年)4月には診療報酬の改定があり、それまであった外来食提供費用の保険給付が廃止されてしまいました。そこで、多くの病院が外来食提供を止める選択をしたのですが、松塩・柏原の両クリニックでは、それ以前の自己負担額のままで、外来患者様への透析食の提供を継続しました。哲太郎先生のこの時の決断は、患者様にはもちろんですが、私達、食事指導を行っている者にとっても、大変ありがたいものでした。

 松塩クリニック透析センターは、その後、2006年(平成18年)に現在の地に移転しましたが、この頃は特に大変な時期でした。移転時に介護施設が併設されたため、食事の提供総数と回数が同時に何倍にも増え、スタッフが混乱しているところに、さらに2007年(平成19年)末には、追い打ちをかけるように、厨房実務請負業者より突然の業務中止の報を受け、混乱に拍車がかかりました。

 急ぎ、哲太郎院長や事務長と相談を重ね、2008年(平成20年)3月より、現在の業者である富士産業様との契約が成立。ほどなく、仕出し弁当に一時変更していた外来透析患者様への提供食も、きめ細やかな対応が可能な院内調理の食事提供に戻すことができ、ようやく一安心いたしました。

 その後、介護施設の増築に伴い厨房拡張工事が入ったのをきっかけに、2012年(平成24年)7月からは、それまで外注弁当だった職員食も健康的で温かくおいしい院内調理の提供食に変更し、職員より好評を得ました。

 振り返ってみれば様々なことがあり、その都度事態に対応して参りましたが、私が最初から一貫して続けてきたことは、やはり第一に、チーム医療の一員としての患者様への栄養指導です。栄養指導にあたっては、一人ひとりの患者様の病状や背景状況を、ご本人様・ご家族の皆様はもちろん、医師やスタッフからもよく聞き取り、その情報をもとに、“実現可能”で“前向きになれる”「プラス思考」の食事管理をモットーに、それぞれの患者さまに適したアドバイスができるよう心を砕いて参りました。後任の皆様には、今後も是非、このような心がけを、当医療法人の伝統として継続していっていただければと思っています。

 長らくお世話になりました職場を去るにあたり、私の栄養士として歩んだ道を振り返ってみましたが、さまざまな経験のおかげで、実は自分自身が一番成長させていただいたのではないかということも、改めて確認することができました。

 最後に、クリニックの先生方及びスタッフの皆様に感謝をお伝えしたいと思います。今後の皆様のご健康とご活躍を心よりお祈りいたします。

<掲載日時 : 2022年01月07日>

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