カンツォーネ「アリブェデルチ・・・」では、“グッバイ・オールドボーイ”と歌われるから、欧米人にとって◯の中は、ヤであろう。わが国では、言葉の歯切れの良さとインパクトの強さが好まれて、バを当てることが多い。
後期高齢者の仲間に入ったばかりのご婦人曰く、「子供のころ、年寄りは何故、座って水を飲むのかと不思議だったが、腰が曲がったり体が硬くなった今になって、理由が漸く分かった。」と。確かに、うがいをするときも立ったままではやりにくいし、含嗽で歌の節を奏でるなどは、年とともに段々難しくなってきているから、自然に止めるようになった。一事が万事である。階段を登るとき、体が重い。階段を下りるときは、手すりに摑まらないと転落しやすい。尖足ぎみになり、脚の上がりも小さくなるので、敷居を跨ぐとき躓く。体の重心が前に移り、杖をついたり、シルバーカーを押したりする必要が出てくる。目も弱り、三毛猫の写真を見て、お刺身に見えたと言う人もいる。耳も遠くなるので、若い親族の話に加わりたくても、大声を出して会話することになるので、若い人も疲れてしまい、自ずと敬遠されることになる。
八十数歳の男性、元気で息子さんの山仕事を手伝うため、毎日現場に出ていた。ある日、伐採の作業中、伐られた木が自分に向かって山の斜面を滑り落ちて来るのに気づいた。昔の彼にとっては、良く慣れた事態であったので、全く慌てず冷静に行動できた。木との距離を目測し、木の走るスピードを見定め、タイミングをはかって避けた。にも拘らず、木は彼にぶつかり、受傷してしまった。受診した彼は、「年だねえ、もうだめだね。」と述懐した。距離感も、スピード感覚も、体の敏捷さも、昔の彼とは異なっていたのである。どうしたら良かったのだろうか、また、今後どうすれば良いのであろうか、良い対策は無さそうである。危険な場所には行かず、山の作業は諦めざるを得ないであろう。
しかし、日常生活では、これほど差し迫った状況は、起こらないであろうから、対処方法はあるはずである。近くの安定したものに摑まりながら進む。自分を支える道具を携えるようにする。段差のあるところでは、一旦両足を揃えて止まり、それから一歩踏み出す、などしていれば、多分、大過なく過ごせるであろう。記憶障害も、整理整頓を心掛ける、メモを取るなどの対処法がある。しかし、こうした方法が身について、危難や失敗を防ぐことが出来るようになるまでには、何年か要し、その間には、失敗が積み重ねられる。分かってはいても、つい以前と同じ行動パターンをとってしまうからである。いわゆる、昔のタッペから、今のタッペに切り替わり、身につくまでに、一体何年掛かるのであろうか。生涯教育の最後の学習に要する時間は、若いころの学習に比べて、何倍掛けたら良いのだろうか。
老化による記憶の衰えに見舞われた人は、曽て、頭の良かった人ほど被害が大きいであろう。自分の頭の良いのに任せて、メモを取る習慣が無い、整理整頓する習慣も無い、とすると、老化による若いときとのギャップは、遥かに大きなものになると思われるからである。最後まで、整理整頓やメモの習慣が備わらない人もあるだろう。
十年ほど前になるだろうか。医療現場での過失が盛んに報道された時期があった。患者の取り違え、注射器の取り違え、注射液の取り違えなど、多岐に亘った。確認作業の徹底(口に出して言う。チェック回数の頻繁化。)や、マニュアル・ガイドラインの強化、識別の簡素化(色彩で区別、置き場所の区別など)を中心に作業者を保護する方向での対策が強化され、ニュースになることは少なくなったので、ある程度の成果は上がったのであろうが、本当に解決したのであろうか。
人は、成長の過程において、さまざまな失敗を経験する。刃物を扱って怪我をすることも何度もある。昔は、肥後之守で有名な折畳みナイフや片切などの小刀が主流であったので、指の先を切り落とすなどの事故も良くあったと記憶している。従って、刃物に対しては、用心する気持ちも強かった。今は、児童の工作などの時間でも、折る刃カッターが主流のようだ。怪我はよくするようだが、傷の程度は浅く軽い。刃物が人を傷つけるという印象を強くもてないのかもしれない。こうした児童が少し大きくなった時、バタフライナイフなどを持つと、簡単に人を刺して殺してしまうことが起きたりする。刃物と言うものに対して、人に重傷を負わせたり、殺したりする道具であるという意識が薄いようだ。安全な環境で育て、安全な刃物を使用させて成長させた結果であろう。人は、経験していないことを、想像力だけでいろいろ想定することは難しい生き物のようだ。ルソーの言う、「失敗の経験さえ奪われる少年の不幸」と言う意味を、改めて痛感する。
反抗期は、成長の過程において、どんな意味を持つのか。大人の教えること、指示することに対して、反抗と言う行動で、検証するのであろう。失敗することによって、大人が正しいとしていることが、本当に正しいか間違っているかを身をもって試しているのであろう。これによって、どの掟には従ったほうが良い、どの掟は無視してよいと言うことが確認できるのではないか。また、どの大人の言うことは信頼に値し、誰それの言うことは聞かないほうが良いと言うことも分かるのであろう。大体、チェックし終えると反抗期は、止むのであろうか。最近の両親は、物分りが良いので、反抗するきっかけを失っており、本来、十七歳くらいで終わる反抗期が、25歳から30歳まで延長しているケースも多いと聞く。ある程度以上の反抗の経験が積み重ねられないと反抗期は、終わらないのであろう。
昔の若者なら、十八から二十歳くらいまでに自分の失敗の経験から、自分の個性に合わせた対処方法を身に付けていたはずである。これは、頭の良い悪いに関わらず、その人の個性に応じて固有のものが成立していたと思う。今は、その年齢までに十分な失敗の経験が得られないために、体に身に付いた失敗防止の手法が、確立されていないようだ。
徒弟制度と今の教育における実習とを比べてみよう。徒弟制度では、準備作業と片付け作業が、キチンと出来るようになるまでは、中心の技能は教えない。まず人格の形成を待って教えるのだと言う説もある。今の実験・実習では、先生が準備と片付けをしてくださる。生徒は、真ん中のエッセンスだけを学ぶ。これが、本当の作業の経験になっているとは、とても考えられない。楽しいことだけをやっていても、大人にさえなれば、本当に能力が備わるものなのだろうか。 ガイドラインやマニュアルは、昔で言えば極意の虎の巻であり、修行を終了した者に、免許皆伝として与えられた卒業証書のようなものと考えられる。今のガイドラインやマニュアルは、まず、それを与えて、本人が我が物とすることを期待する。危うさが付きまとうのは、致し方ないのかもしれない。今の社会における職業教育の危うさを思う。
老いも若きも修行が身に付くには、長い時間と経験を必要とするもののようだ。これは、文明が発達しても変わらないのであろう。
初出:松本市医師会報 2011(平成23年)5月号 第516号
<掲載日時 : 2011年03月24日>