鳥にまつわる思い出

母親が言うには、ミミズクは「ノリツケホーソー」と鳴き声が聞こえると、その後は大体3日くらい晴天が続くという。
ミミズク

“ミミズク” 小学校3年生くらいの頃、我が家の裏山の大きな杉の木にミミズクが来て、そこをねぐらにするようになった。ミミズクはフクロウの仲間で、羽を広げると差し渡し80㎝くらいにもなる、かなり大きな鳥だ。母親が言うには、ミミズクは「ノリツケホーソー」と鳴き声が聞こえると、その後は大体3日くらい晴天が続くという。だから、洗濯物に糊をつけて干そう、と鳴くのだそうだ。何だかうまいことを言ったものだ。

 着物を丸洗いするときには、一旦ほどいて反物の状態にし、糊を付けて張り板にきれいに張りつけて乾かす。そして、しわを伸ばした布をまた縫い戻す。今も高級な着物の洗濯の時はこれが実際行われているが、昔はどこの家でもやっていたことだ。そうやって糊をつけ、「洗い張り」して、古い着物を仕立て直し、リニューアルしてはまた着ていたのだ。昔の人たちは、ものを大切にして丁寧に暮らしていた。晴天が続くとわかれば、洗い張り用に着物をほどいてもよさそうだとタイミングが分かったかもしれない。ミミズクの声を「糊付け干そう」と聞くなど、昔の主婦たちの心根が良くうかがわれる感じがして面白い。

 自然界には気象予報官より正確に天気を予報する動物や植物が相当数あることがわかっているけれど、詳しく調べてみれば、実はもっとたくさんのものが予報の信号を出しているのかもしれない。例えば、雪の多い年はカマキリが高いところに卵を産み、少ない年には低いところに産み付けるなど、よく聞く話である。地球上の動植物、場合によっては鉱物や太陽なども、恐らくあらゆるものが何らかの関連を保ち、よく観察すれば、変化の兆しを放っているのであろうが、詳しいことはまあ専門家にお任せしておこう。

 子どもの私は、ミミズクの様子をできるだけ近くで見てみたいと好奇心を出し、裏山の杉の木のそばまで行ってみた。が、これがなかなか難しい。近づくと逃げてしまうし、辺りは暗い。その辺りに居ることはわかっているのだが、全然見つけることができない。結局ミミズクの姿を近くでよく見てみたいという望みはかなわなかった。

 ミミズクが裏山に住んだのは1年ほど。翌年からは気配もなくなり、鳴き声も全く聞くことが出来なくなった。しかし、たった1年でも、あの大きな体の鳥が飛ぶ様子を遠くから見たり、面白い鳴き声を聞くことができたりしたのは楽しかった。裏山の野生の住人に好奇心を掻き立てられた、ちょっとした思い出だ。

“コノハズク” 信州に暮らすようになってからも、コノハズクが綺麗な声で「ブッポウソウ」と鳴くのを何度か聞けたことがある。が、これも鳥の姿自体は確認できなかった。後にまたその声を聴きたいと思い、4~5年同じような場所で待ってみたが、鳴き声を聞くことはなかった。悲しい思いになった。地球温暖化の影響なのかもしれないが、今までいたはずの野生の生き物がいなくなるのは、寂しいことである。

 このエピソードについて書き始めた後、モンベルに買い物に行ったところ、珍しくミミズクがデザインされたTシャツが店頭にあって目に留まったので購入、気に入って着用している。

キジ

“キジ(オス)” 日本の国鳥は?と人に質問すると、ツルとかトキとかいう答えが返ってくることが多い。しかし、日本の国鳥はキジだ。昔から決まっているのだが、国の象徴の鳥といえば他の鳥の名前の方がまず思いつかれるようだ。以前は確かキジの描いてあるお札があったと思うが、今は鳳凰になってしまったらしい*。
(*1984年~2004年に発行された福沢諭吉柄の一万円札旧紙幣の裏側が雉だったが、2004年~は鳳凰になっている。)

 野生のものは人前にはあまり姿を現さず、鳴き声を聞くこともなかなかできない鳥であるが、雨の降る前とか、人間には感じない程度のちょっとした地震がある時など、大きな声で鳴くことがある。こちらの山からあちらの山へ、谷を越えて届くほどのよく響きわたる鋭い声だった。

“キジ(メス)” 春先になると、オスは成長とともに顔が赤くなり、赤いトサカも出て、首元の羽毛も茶色から青緑色に光るような色合いに変化し、ものすごくカラフルな色彩になる。一方、メスはどこにいるやらわからないような全身褐色の地味な姿である。だがその地味ないで立ちは、子孫を守るのには大いに役立っていると思われる。母キジのわが雛に対する愛情は他のどんな鳥よりも強いようで、抱卵中に敵が近づいても、とにかくじっとして動かず、卵をひたすら守り続けるのだ。その目立たなさは超一流で、山を歩いていて、まったく何の気配もせず生き物などいないと思っていた藪の中から急に茶色いキジが飛び立って、大変驚かされたことが何度かある。

 たとえば子どもの頃、タケノコが生えていないかなと竹林を見に行った時、すぐ間近でキジに遭遇したことがある。キジは普通竹藪などで抱卵するが、そのキジも竹林の草の中に巣をかけていたようだ。草むらに足を踏み入れた途端、私の股の間から、茶色い塊がバタバタと羽ばたいて飛び立ち、それはもうびっくりした。知らないうちに卵を抱く鳥の上を跨いでいたのだ。人間が巣に近づいて来ても、本当に触れるか触れないかくらいの、限界ギリギリになるまで、息を殺してじっと我慢し続ける母鳥の気力、これはすごいと感心した。ただ、飛び立った跡には卵が2個ぐらい残されていたので、それはみんな拾って持ち帰ってしまったのだが…。

 また別の時、これは小学校4年生頃だったと思うが、学校帰りにキジに遭遇したこともある。帰り道の途中に麦畑があり、その畑の中で、茶色い鳥が麦を食んでいた。チャボの親子連れかなと思ったが、そろそろっと忍び足で近づいていき、よく見てみたら、チャボではなさそうだった。足がちょっと長く、色もチャボとは少し違っていたので、ああ、これはキジだろうと思いついた。そして、私ももう小学校4年生なのだから、今ならきっとキジに負けないくらいは速く走れるはずだ、と考えた。そこで、カバンを放り出し、ぜひ自分の手で捕まえてやろうと思って近づいていった。すると、母親キジがまず気付いて、空を飛んで逃げていってしまった。よしよし、親がいなくなった雛は、きっと皆途方にくれてそこら辺でうろうろするだろうから、追いかけて捕まえてしまえばよい…。そんな風に思っていたら、それは実はとんだ間違いであった。この雛たちの足が速いこと!とにかく速くて、どんなに精一杯走ってみても全然追いつかないのだ。小さな鳥が地上であんなに速く走れるものとは思ってもみなかった。あのように逃げ足の速い生き物を捕まえるには、網などを持って二手に分かれて連携して追い込んだりしないととても無理そうである。

 このようにすばしこく我慢強いキジだが、そういえば、桃太郎さんのお供にもなっていた。昔の干支を使った方位で鬼門の方角といえば丑寅うしとら=北東で、それとほぼ反対側の北西~西(裏鬼門)の方角に当たるのがさるとりいぬだ。それで、サルとキジとイヌが鬼退治に行く人間のお供をしたわけである(西の方位の仲間に入っているはずのヒツジは、鬼と同じく角があるからダメだったとか)。桃太郎も力を借りるほど強い鳥代表がキジなのだ。小さな鳥に足の速さで負けるほど人間の能力は劣っているかもしれないが、人間は複雑で高度な技術を使った道具を作ることができる。きび団子もつくれるし、今や新幹線だとか宇宙ロケットだとか、昔は考えもしなかったものも作成可能である。総合的に各方面からの知識や技術を集めて、力を合わせてすごいものを作れるのだ。そう考えれば、キジに足の速さで負けたとて大丈夫、人間の能力は偉大だ、と自分で自分を納得させた。

障子紙を食べるニワトリの話

“ニワトリ(白色レグホン-メス)” 終戦後、日和ひわ村(現在の島根県邑智郡おおちぐん邑南町おおなんちょう内)に一時住んだことがある。食糧事情が非常に悪かった時代だ。その頃、父親がどこからか白色レグホンのメスを一羽持ち帰り、それを我が家で可愛がって飼っていた。やがて卵を産むようになり、その卵のおかげでタンパク不足も少しは解消されたと思う。とても役に立つ家禽かきんでもあった。

 ところが、ある日のこと、そのニワトリが廊下に上がってきて、突然、障子紙を突つき始めた。さらにそのうち、突ついて破り取った障子紙を呑み込んで食べてしまうようにもなった。ヤギは紙を食うというが、ニワトリが紙を食べたので、皆で珍しがってその様子を面白く観察していた。が、家の障子紙は穴だらけになり、そのうちに、下の方の嘴が届く範囲の障子紙は全くなくなってしまった。家の風通しが良くなった、と笑っていたが、ニワトリは自分の家だけでは我慢しなかった。食べられる紙がなくなってしまうと、今度は隣近所の家へ上がり込み、同じように障子紙を突ついて食べ、各家から苦情がたくさん来て、大変なことになった。その都度、母親が糊と障子紙を持って被害にあった家に行き、謝って許してもらっていた。母の謝罪でなんとか無罪放免となった障子紙食いニワトリは、その恩も知らずに、引き続きあちこちの家の障子紙を毎日元気に食べて回っていた。

 その後、地方公務員の定例の転勤により、教師だった父は、今度は粕淵かすぶち村(こちらも現在の島根県邑智郡邑南町内)への転勤となった。紙食いニワトリは、一家皆に愛されていたため、処分されることもなく、無事に家族と一緒に引越した。粕淵村では、教員住宅として適当なものがなく、その地域にあるお寺の納屋みたいなところを転用し、私たち家族が寝泊まりできるよう設えてもらうことになった。お寺であったためか、この家では、障子が高いところにしかなかった。高すぎてニワトリの背が届かないので、今までのように障子をパリパリと食べることができない。紙食いが物理的にできなくなったため、この奇行は止まり、ニワトリはすっかりおとなしくなった…、と思われた。

 ところが、ある日突然、このニワトリが行方不明になったのだ。その時は、お寺の近所でニワトリを飼っている家から、家の中に校長先生のニワトリがいる、と連絡があったため、母親が迎えに行って連れて帰った。その後、毎日産んでいた卵を突然産まなくなってしまったこともある。卵産まなくなったねと話していたら、ある日誰かが、お宅のニワトリが寺の床下でたくさん卵を産んでいるようだと教えてくれた。母親が見に行ったところ、寺の本堂の高い床下に卵を産む場所を作って、そこに20個くらい生み貯めていたという。それからしばらくして、ニワトリはまたいなくなった。恐らく前と同じところへ行ったのだろうと思い、確認したところ、やはり「片山さんのニワトリが来ている」と言われた。

 障子紙を食べるのが治まったと思ったら、今度は脱走の癖がついてしまったようだ。それでもニワトリは家族皆から大事に可愛がられていた。やがて、朝になるとずいぶん下手くそな鳴き声で「コケッコッコー、グーグーグー!」と雄鶏の鳴きまねをするようになった。親たちは、女の子一人でいるせいだろうか、だから男の子もいるあの家の集団に入れてもらうと精神的に安定するのであろうか、などと議論していた。

 この我が家の愛されお騒がせニワトリも、やがて悲しい最期を迎えることになる。父親の転勤により、川下かわくだり村(現在の島根県邑智郡川本町)に転居することになったとき、荷物を小舟に載せて運搬する途中のことだった。ニワトリは荷物の間に首を挟まれて死んだと聞かされた。運搬する人たちが酒の肴にするために故意にやったのではなかろうか、という風に言う大人もいた。

 ニワトリなどの集団を見れば、普通は、リーダーになるオスがいて、そのオスを中心にメスがたくさんいる群れを作って暮らしている。今になって思えば、メスとしては、そういうグループに入るのがもしかしたら一番ストレスのない状況だったのかもしれない。だとすると、私のニワトリはかなりかわいそうな状況であったのかなとも考えるようになった。障子紙食い、脱走、雄鶏の鳴き声は、もしやストレスの現われであったのではないかとも思う。その後、任期が満了になった父親は川下村の教育長となって、ニワトリのいなくなった家で定年を迎えた。

鳥とは関係ないが、粕淵のお寺の裏話

 先ほども書いた通り、粕淵村にいた頃はお寺の中の家に暮らしていたが、そのお寺の本堂では、一時期、疎開児童が大勢寝泊まりしていたことがある。終戦間近の頃で、都市の空襲が日毎に激しくなるため、学童たちはより安全な農村地域に集団で疎開させられていたのだ。そして、終戦後、子どもたちは全員、都会の自宅へと帰っていった。そして元通り、本堂では、寺の住職さんが正式な衣装を着て、白足袋を履き、本尊様の前で朝の読経をするようになった。

“ノミ” ある日のこと、お寺の本堂から庫裏の方へ帰ってきた和尚さんが、墨染めの衣を脱いで一生懸命何かしているのを目にした。半分楽しみながら、何かをつまんでは敷居の桟のところにずらりと並べているようだった。好奇心を覚えて、何の行列を作っているのか見に行ってみた。すると、ノミのつぶれたものが長い列をなし、敷居の横木の上にたくさん置かれていた。子どもたちがすっかりいなくなった本堂には、ノミの大群が疎開したまま棲みついてしまったようだ。

 ある時、衆議院議員選挙の前に、ある候補の立会演説会がそのお寺の本堂で執り行われることになった。村中の有権者たちが、候補者の話を厳かな面持ちで真面目に聞いていた。ところが、一時間くらいたったところで、大人たちが本堂の外へ全員出てきて、衣服を脱ぎ、肌着まで脱いで、それをパタパタと払い始めた。ひどく奇矯な光景だった。ノミの大群にしこたま体中刺されて、皆最後は演説会どころではなくなったらしい。

 人の手でいくらつぶしても、ノミの大群を絶やすことはなかなか出来るものではない。が、戦後アメリカ軍が持参したDDTという殺虫剤は効き目が素晴らしく、これが出回ると、ノミはたちまち姿を消してしまった。アメリカ軍の指令で、全学校の児童生徒の衣服頭髪等へのDDT噴霧がどんどん行われたのだが、すると、ノミはもちろん、シラミ、ケジラミもたちまち消滅してしまったので驚いた。DDTは、その後健康被害も取りざたされたが、殺虫効果は本当に高かった。有害で鬱陶しいノミ、シラミ等が消滅したので、そこは本当にありがたいと思っている。

2022年(令和4年)6月 水上 悦子

<掲載日時 : 2022年06月21日>

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