故郷の島根県川本町での川魚捕りの思い出

私の故郷は、島根県邑智郡川本町という中国山地の山襞に包まれた小さな町だ。

 私の故郷は、島根県邑智郡おおちぐん川本町かわもとまちという中国山地の山襞に包まれた小さな町だ。古くは石見銀山に向かう街道沿いの宿場町であった。山間の狭い町を貫くように、たっぷりと水を湛えた江の川ごうのがわがゆったり流れ、その本流に流れこむいくつもの支流は上流域で美しい渓谷を作っている。それらの流れを棲み処とする川魚の種類も豊富で、本流や支流での魚捕りは子ども時代のとても懐かしい思い出だ。日本の川に在来魚の魚影が減り、子どもたちが日常の営みの中で自然と触れ合う機会もなくなりつつある今こそ、当時のたわいない日常の中で子どもたちがどのように地元の川や魚たちと付き合っていたのかを書き留めておきたいと思い至り、拙い記憶をもとにこの魚捕りの思い出の記録を作成してみた。


アユ

“アユ” 江の川の本流ではもっぱらアユを捕った。アユは4月初め頃、日本海に注ぐ河口から列を作って遡上し、梅雨時の六月頃まで江の川の豊かな水の中で小さな昆虫等を食べて集団で過ごす。その間、ドブ釣という方法でよくアユを狙った。山から落ちてくる小川が本流に流れ込むところに淀みができるのだが、金色によく光る三角形のおもりに毛針をつけて、その淀みの辺りでおもりを浮き沈みさせると、天ぷらにするのにほどよいワカサギほどのサイズの小鮎が釣れた。

 梅雨時の終わりからは、アユは縄張りを作り、大抵その中の石に着いている苔を食べて大きくなる。川の上から見ると、苔を舐めているアユは一匹ではなく、五~六尾が一緒に石の辺りに集まっている様子がわかる。夏休みが始まる七月頃からは、ドブ釣りではもう全然釣れなくなり、友釣りでよく掛かるようになる。アユの友釣りは的確に生きたまま水から出すことが出来るので、フナやハヤなど他の魚を釣るよりは効率が大変良い。おじさんたちに釣り方を教わり、竹藪に行って自分の背丈に丁度いい竹を見つけて、炙ったり、取手を調整したりして、自分用の竿を作って使っていた。

 アユの友釣りでは、その名の通り友を引き寄せるためのタネアユ、つまりオトリとして竿につける生きのいいアユが必要だ。そこで、常に新しいアユを用意しておくため、ほとんど毎日川へ友釣りに行くことになる。初めは家の者たちも獲物に喜ぶが、だんだん始末が面倒臭くなって、もう獲ってくるなとかやめろとか言われるようになる。が、友釣りのアユが掛かった時の手応えはとても忘れられるものではない。食べるのに飽きてしまっても、アユを掛けて回収する手間が面白く、止めることはなかなか出来なかった。

 秋、9月の中頃になると、オスのアユたちは腹の方が赤くなってくる。この頃にはエサを食べなくなって、体はやせ細ってくる。オスがメスの近くに何匹もくっついて回り、小集団を作りながら皆で産卵のために川を下ってくる。この落ち鮎釣りには、チャグリという釣り方を使った。コロガシと呼ぶ地方もある。返しがない釣り針をいくつも糸に結んだ仕掛けを水に投げ、まっすぐ川底を転がしながら引いてやる。すると、うまく集団に当たれば、一度に2~3匹、多いときは5~6匹も針に引っ掛かってくる。但し、数匹も針に掛かると、水から揚げるときに2~3匹ほどバレて(針から外れて)逃げてしまうこともある。返しがないから仕方ないが、おかげで糸も切れずに何度も釣れる。たまにアユの間にコイがいて、針に掛かってしまうことがあるが、そうなったらもう水から揚げることはできない。仕掛けも竿も全部ダメになってしまう。

 落ち鮎は昼も釣るが、夜になってからも釣れる。河原にたき火を焚いて、水に入り、寒くなったら火で体を温める。そうやって夜10時ごろまではチャグリを続ける。一晩で100匹も釣る人もいた。子どもの私でも50~60匹とれて、うわぁ、となった。何とも誇らしいうれしい気持ちだった。但し、落ち鮎は、餌も食べずに繁殖行動に一生懸命集中し、やせて脂が落ちてしまっているので、それほど美味しくはない。たくさんとれはするが、肉があまりないので出汁にしかならないという人もいた。

ウナギ

“ウナギ” ウナギ捕りでは、細長い筒状になったウナギかごを使う。かごに細い紐を付けて木にくくりつけ、石を重しとして入れ、餌になるミミズや魚のあらも入れておく。夜中にカゴに入った鰻が朝になって逃げようとしても外に出られないような形になっているため、夜に川底へ沈めておいて朝回収して歩く。1日に10本も沈めておくとかなり大漁になる。

 また、延縄はえなわは、少し太めの綱に所々ウナギ針をつけて、その針にゴリやアユなどの魚の頭とかミミズとか簡単な餌をつけて沈めておくと、夜中に餌を食べにきた魚が針に掛かる仕掛けだが、この綱を朝に引き上げて回収すると、針にはウナギやコイがよく掛かっていた。時にはオオウナギとかスッポン等までが付いてくることもあった。

コイの池

“コイ” コイは骨がたくさんあるため、普段の食用にはせず、捕れた時には家に持って帰って裏の池に放り込んでおいた。

 我が家の裏手には山から浸み出る冷たい綺麗な湧水があって、近隣で水道がまだ引かれていない家庭では、そこでバケツに水を汲んで生活用水に使っていた。裏山には小さな谷があって、そこにはサワガニがたくさんいた。“サワガニ”我が家の生活用水はその谷から取っていた。夏はこの裏山の冷たい湧水の谷からの涼しい風が絶えず家を通り抜けてそよいでいたので、クーラーなど全く要らなかった。谷川の水が絶えず家の裏のタンクに流れていたので、網掛け用のタネアユを缶の中に入れて生かしておくのにも使えてとても便利であった。

 コイを放っていた池には、春になると山からモリアオガエルがやってきて、泡の中に卵を産んだ。“モリアオガエル”釣ってきたコイやフナ等の食べない魚は全部池の中に放り込んでいたが、ひどく小さいウナギなどは近所の人たちの生活用水となる湧水の井戸の中にも放り込んでいた。ある時、水汲みに来た近所の人が、「井戸の中に大きなウナギがいた!」と驚いていたので、恐らく私たちが捕ってきて放り込んだチビのウナギがそこで大きく成長したのに違いない、と思った。

ドロバエ

“ドロバエ” 家族でゼンマイを採りに山に入ったときのこと、清流に近いところで皆でおにぎりを食べていたところ、おにぎりのかけらが転がって川に落ち、その行く末をよく見ていたら、10cmから15cm程度の小さな魚たちが飯粒に群がって我れ先にとむさぼり食べていた。これは簡単に釣れる!と思い、木のつるを釣り糸代わりにして、適当にカギのある木の枝をくっつけ、その先にご飯粒を付けて水に浸けてみたところ、これがまた面白いほどどんどん釣れた。もちろん持ち帰って煮魚にして一家中で全部たいらげた。その魚は頭から尾までが10cmから15cm程度の大きさで、腹の部分が黄色く、ハヤのような形をしていた。

 帰っていろいろな人に魚の名前を聞いたところ、「ドロバエ」というハヤの一種で、江の川の本流では全く見られない魚だが、味は同じで薬にもなるという話だった。おかげでタンパク不足が大分解消されたのか、確かに食べた後には元気が出たように思う。

ギギ

“ドロバエ” ギギという魚は、大きな岩場の辺りで陰った淵のあるところに生息していた。ナマズに似て口の周りにひげがあり、色は黒色、背中に棘が一本立っている。鱗が無く、ウナギのようなつるりぬるりとした皮膚を持っている。ミミズを餌にして簡単に釣れるが、釣り上げると「ギギギギ」と鳴くのでギギという名前をつけられたようである。白身の魚で味に癖がなく、味噌汁等に料理されることが多い。

“テナガエビ” この魚は大きな岩があって水の流れが淀んだ淵の中に潜んでいるのだが、そういう場所には、テナガエビもよく一緒に棲んでいる。テナガエビは少し大きいサイズなので、捕まえてきたら天ぷら等にする。青竹の葉をしばらく水に沈めておくと、シマエビが集まってきて棲み処にするので、これも結構たくさん捕まえることができた。これを天ぷらとか佃煮とかに料理する人も多かった。

アユカケ

“アユカケ” 江の川で捕ってきて食用にした魚には、そのほかにホウボウとかカナガシラに似た「アユカケ」(釣り方ではなく魚の名前)という体長30cm程度の魚もいた。昼間は岩の石の下に潜り込んで寝ているため、昼間に行って魚が休んでいそうな石に見当を付け、そっと手で退けて魚がいるか確認し、いれば上から両手でガッと掴むと簡単に捕れた。それを腰にぶら提げた袋に端から入れながら河原を一回りして捕った後、もとの岸に戻って家に持って帰った。するとウナギと同じような付焼きになって食卓に出てきた。昼間に行って手づかみで取り押さえられるので、子どもにもできる大変楽しい魚の掴み取りだと思う。終戦直後の当時はまだ規制もなかったので、何でも自由に釣ってきては味噌汁にして食膳に載せていたが、今ではアユカケの捕獲は一部の川では厳重に禁止されているようだ。

オオサンショウウオ

“オオサンショウウオ” 戦中の頃の農業は殺虫剤等が手に入らず使えなかったので、田畑は自然のままになっていた。食糧難の解消策として、冬は田んぼの田螺、セリ等を集め、夏は川でアユ、ウナギその他の淡水魚を捕って食べていた。海からは日本海に豊富なイカ、サバ、シイラ、アジ、イワシ、ノドグロ、カレイ、ヒラメ等が供給されたが、食料配給制度で手に入る分量は十分とはいえなかった。戦時中は男手が少なくなり、蛋白源となる食物の生産獲得の量がが大幅に減ってしまった。そのため、各家庭でニワトリやウサギを飼っていた。近所のおじさん達が夜中に山の中の清流に棲んでいるオオサンショウウオを生捕りにして持ち帰り、焚き火の中へ放り込んでお肉の代わりにして食べてしまったなんていう光景を目にしたこともあった(当時はまだ天然記念物に指定されてはいなかった)。ただ、黒い大きな生き物が焚き火の中から何回もゴソゴソ出てきて這い回る様子は気持ちの良いものではなく、とても食べようという気にはなれなかったのを覚えている。結局、オオサンショウウオの肉は私には回ってこなかったので、味についてはどんなものなのかはわからない。

アユのうるか

“アユのうるか” 最近時々アユのうるか(はらわたの塩辛)を無性に食べたくなる。この頃は珍味のコノワタと似たような味がすると思っている。あんな苦いものは食べられないという人も多いけれど、私にとっては、時々どうしても食べたくなる味なのだ。そこで、長良川の戸網で捕った冷凍アユを取り寄せて、自分でうるかを作って楽しんでいる。乾燥させて缶の中に保管しておくとよい出汁のもとにもなる。子供の頃は、砂糖醤油をつけたものがお弁当に入っていたりした。が、当時は珍味といえるようなものだとは思っていなかった。


楽しかった少女時代の川遊び

 このように川で魚を捕るのが大好きだった私は、おはじき、ままごと、ゴム跳びなどという女の子の遊びはどうも性に合わず、夏中ずっと川で遊び、日に焼けて肌も真っ黒になっていた。鮎掛けに来たおじさんたちには、「女の子がそういうことをすると嫁に行けなくなる」と言われたが、とにかくゆとりがあれば外へ出かけて行って、山や川を自分の縄張りにしていた。

 最近はウナギの稚魚が少なくなり、ウナギの蒲焼の値段がひどく上がったので、とても驚いている。なにせ当時は自然のウナギや傷の少ない友釣りのアユ等がふんだんにあるため、母親は「そろそろやめてくれないか」と頼むほどであったのだ。まあそれほど私が魚を捕っては家に持ち帰っていたということでもある。

 中学生にもなると周りはしきりに受験勉強をしていたけれども、私はとにかく自然の中でキノコとか魚を採集捕獲するのが楽しいので、そちらにかまけて机に向かう勉強はほとんどしていなかった。もっとも終戦直後は長時間机に向かって勉強するほどの教材や本がなくて、教科書もしっかりしたものはろくに無かったので、もしかしたら自然を見て歩いた時間の方が結局はためになったのかもしれない。


江の川の魚たち
  • アカモチバヤ(アカウオ)
  • アユ
  • アユカケ
  • ウナギ
  • オオウナギ
  • オオサンショウウオ
  • カメ
  • ギギ
  • コイ
  • ゴリ(ヨシノボリ)
  • ゴンズイ(海の方)
  • シマエビ(スジエビ)
  • ズガニ
  • スズキ
  • スッポン
  • スナドジョウ
  • テナガエビ
  • ドイツゴイ
  • ドジョウ
  • ドロバエ
  • ナマズ
  • ハヤ
  • フナ

<魚ではないが>

  • カジカ(=カエルの方)
  • カワニナ
  • ホタル

2022年(令和4年)3月 水上 悦子

<掲載日時 : 2022年03月31日>

その他の記事 - 悦子先生・哲先生ブログ

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