沿革
昭和56年4月1日、現松塩クリニック院長の水上哲太郎が、辺地医療に取り組むために当時勤めていた松本市内の総合病院を退職して島々診療所を開設しました。歯科医療への要望が地元住民から強かったため歯科も併設し、大野川にも歯科スタッフを派遣しました。昭和56年の受診者数は500人程でしたが、松本や波田まで通院することを考えると年約1200万円の交通費の負担減となるので、安曇・奈川地区の住民の経済的負担を軽くしたことになるのですが、バス会社の損失になったわけですから、評価が難しいところです。
その後、透析治療も行うことにし、同年7月31日に第1回の透析治療を行いました。当時の松本市内や波田町からも患者さまが通っていて、多い時には8人の患者さまが治療を続けていました。一時は患者さまの平均透析年数が23年を超えるまでになり、これは全国でも最長のデータではないかと思っています。
地元の要望を受けるかたちで、安曇村の開設する稲核診療所、沢渡診療所の経営も委託され、往診にも力を注ぎました。往診距離が31kmに達する場所もあり、保険審査委員会から犯罪扱いされて咎められたことが何度もありました。過疎地の実情をその都度詳しく説明しましたが、この問題はその後も解決されることがなく、経世家的思考の稀薄さを痛感する日々でした。
昭和57年の台風水害、昭和62年の上高地群発地震なども経験しました。名古屋逓信病院の外科医長であった高橋清先生がいらして下さり、十数年お助けいただきました。平成15年から高橋信子医師が勤務されました。平成の大合併に伴い平成17年4月より、稲核診療所、沢渡診療所は松本市との契約に変わりました。この時点で、安曇村の国保診療者の年平均医療費は約28万円でした。これは、周辺市町村に比べると約4万円から14万円ほど低い金額になっていました。
その後、高橋信子先生が島々診療所、稲核診療所、沢渡診療所、大野川診療所の4か所の院長を兼務することになり、平成18年8月からは、水上哲太郎医師が松塩クリニックの院長を勤めながら、島々診療所も支援する形となりました。開院以来、祝日のみを休診日とし、24時間対応を続けていた診療時間を徐々に縮小し、火木土の診療体制になりました。
平成19年4月7日、最後の透析治療を行い、透析部門は終了しました。その後も一般外来は診療を続け、在宅支援診療所として力を尽くしました。平成21年6月1日、医療法人金剛に経営を移管しましたが、平成24年4月1日より松本市の経営の下に「松本市安曇島々診療所」として診療が続けられることになりました。
島々診療所松本市へ移管
PPK(ピンピンコロリ)の代表的な現場の中で、在宅医療にも微力を尽くし、自然災害や事故などの様々な出来事を、住民の皆さんと共に体験し、対策に取り組んで参りました。
以下に松本市市民タイムスに取り上げられた記事を掲載いたします。
地域の皆さまに宛てた手紙の内容は「創立者より」ページに掲載しております。